ローマ対ラツィオ:デルビー・デッラ・カピターレの歴史
一つの都市、一つのスタジアム、そして敵対する二つのゴール裏。ローマダービーはどう生まれ、何を決めてきたのか、そしてなぜイタリアで最も激しい一戦なのかを解説する。


ローマには2つのクラブがあり、スタジアムは1つで、休戦はない。デルビー・デッラ・カピターレは、同じスタディオ・オリンピコでローマとラツィオを向き合わせる一戦であり、赤と黄に染まる南ゴール裏と、青と白の北ゴール裏が対峙する。優勝実績で見ればイタリア屈指のクラブ同士の対決ではないが、最も激しいダービーだと考える者は多い。首都では、この一戦の結果がリーグ順位よりも重い。
ラツィオの創設が先で、1900年に総合スポーツクラブとして設立された。ローマの誕生は1927年で、ファシスト政権下で推進された、市内3クラブの合併によるものであり、目的は北部の強豪クラブに対抗できる力を作ることだった。ラツィオはこの合併への参加を拒否し、その拒否こそが両者の対立の原点となった。デルビーは最初の日から、合併に加わったクラブと、あえて単独の道を選んだクラブとの対決であり続けている。
タイトルと連続したスクデット
タイトルの数で見れば、この情熱の大きさに対して対決は地味だ。ローマがイタリア国内タイトル3回、ラツィオが2回。注目すべきは、直近のスクデットが連続した年に訪れたことで、ラツィオが2000年、ローマが2001年と続き、世紀の変わり目は街を分け合う両陣営の緊張が最高潮に達した時期となった。欧州では、ラツィオが1999年のUEFAカップウィナーズカップを掲げ、ローマは2022年のUEFAカンファレンスリーグで、近代に入って初の大陸タイトルを手にした。
2013年5月26日ほど痛みを伴う章はない。史上初めてにして唯一、両クラブがコッパ・イタリア決勝で相まみえ、セナド・ルリッチのゴールでラツィオが1-0で勝利した。ラツィオのサポーターにとっては最高の日であり、ローマのサポーターにとっては、相手側が毎年欠かさず思い出させてくる古傷である。この種の試合の前後では、両ゴール裏が世界のサッカーでも屈指の見事なコレオグラフィーを繰り広げる。
クラブ一筋の顔と、境界を越えた者たち
このダービーは、片方のクラブだけに生涯を捧げた顔ぶれのギャラリーでもある。フランチェスコ・トッティとダニエレ・デ・ロッシはキャリアの全てをローマで過ごし、クラブの代名詞となった。反対側では、ジョルジョ・キナーリャ、アレッサンドロ・ネスタ、そしてラツィオ史上最多得点者のチーロ・インモービレが同じ役割を担っている。境界を越えることは極めてまれで、決して許されない。シニシャ・ミハイロヴィチ、そしてより近年ではペドロが、2つのユニフォームを着た数少ない選手に名を連ねる。
数字で見るローマとラツィオ
| 項目 | ローマ | ラツィオ |
|---|---|---|
| 創設 | 1927 | 1900 |
| イタリア国内タイトル | 3 | 2 |
| 直近のスクデット | 2001 | 2000 |
| 欧州タイトル | UEFAカンファレンスリーグ2022 | UEFAカップウィナーズカップ1999 |
| 2013年コッパ・イタリア決勝 | 敗北 | 勝利 |
デルビー・デッラ・カピターレは、ローマの街が立ち止まる日であり続けている。その分断は地理的なものではない。同じ地区、同じ通り、同じ家族の中にさえ、ローマのサポーターとラツィオのサポーターが共に暮らしており、この一戦が、次の対戦までどちらの半分が胸を張って歩けるかを決める。デルビー・デッラ・マドンニーナと並んで、イタリアにおいてダービーはタイトルの数ではなく、帰属意識で測られるものだという証しである。
デルビー・デッラ・カピターレ、あなたはどちら側か?
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よくある質問
- なぜローマのダービーはデルビー・デッラ・カピターレと呼ばれるのか?
- イタリアの首都にある2つの大クラブ、ローマとラツィオの対戦だからだ。両クラブは同じ街と、同じスタジアムであるオリンピコを分け合っている。
- ローマとラツィオは、これまでにタイトルを懸けて直接対決したことがあるのか?
- ある。2013年のコッパ・イタリア決勝がデルビーとなり、セナド・ルリッチのゴールでラツィオが1-0で制した。この一戦の歴史で唯一の例である。
- ローマとラツィオ、イタリアタイトルが多いのはどちらか?
- ローマがイタリア国内タイトル3回、ラツィオが2回である。この2つは歴史的な連続優勝で、ラツィオが2000年、ローマが2001年に勝ち取った。





